ここで、エイズの治療薬の開発の歴史を振り返ってみます。
1990年初頭、エイズという不治の病に対応するため、アメリカでは10数社の製薬会社がコンソーシアムを作って、お互いに情報を共有していました。
エイズに関しては、1980年代の初めころLGBTの人たちの間で奇妙な病が流行っている、と言われ始めてから1980年代の後半には原因となるウイルス(HIV)が同定され、電子顕微鏡写真も撮影されました。
…
ここまでは早かったのですが、問題はその後でした。
まず、ウイルスと戦うための効果的な武器であるHIVのワクチンはいまだにできていません。
また治療薬としては日本人の満屋裕明先生によるAZTと呼ばれる逆転写酵素阻害剤がいくつかありました。
しかし、AZTに対してHIVウイルスはすぐに耐性を獲得してしまい、1~2週間程度で効かなくなってしまいました。
それほどまでに、RNAウイルスであるHIVの変異は早かったのです。
アップジョン社のチームは、HIVの受容体であるCD4との結合を阻害する研究を続けていました。
HIVウイルスは、コロナウイルスと同じように球形をしており表面にスパイクと呼ばれるトゲトゲがついています。
HIVウイルスは、このトゲトゲで重要な免疫細胞であるヘルパーT細胞の表面にあるCD4というたんぱく質と結合して、ヘルパーT細胞内に侵入していたのです。
当時はHIVがヘルパーT細胞に侵入するのを防ぐ方法を探していたというわけです。
しかし、この方法も行き詰まりをみせ、もはや打つ手無し、という状況に追い込まれていました。
※1996年に新たな受容体CCR5とCXCR4が発見され、この分野にも進展が見られました
この時点で、ほとんどの製薬会社がエイズの治療薬の開発をあきらめていました。
CD4たんぱく質に注目していたアップジョン社でしたが、結局は1991年に上からの中止命令が出てこのプロジェクトも中止になってしまいました。
そのころ私は、CD4の分子モデリングを担当していた人たちと、GPCR(G-たんぱく結合型受容体)の分子モデリングを行っていました。
(エイズの治療薬の開発チームの人の一部が高血圧のチームに合流したということです)
アドレナリンやアンジオテンシンIIなどの物質が体内の受容体に結合して血圧が上昇することは広く知られていましたが、そのメカニズムは謎のままでした。
これらの受容体の仕組みを知りたいと思っていたのです。
ところで高血圧にかかわるシステムに、レニンーアンジオテンシン系があります。
簡単に説明しますと、肝臓などで作られたアンジオテンシノーゲンという物質が、レニンという酵素によりアンジオテンシンIという物質になります。
すなわちレニンとは、アンジオテンシノーゲンというたんぱく質(プロテイン)を分解するプロテアーゼと呼ばれる酵素なのです。
この後、アンジオテンシンIはACE(angiotensin converting enzyme アンジオテンシン変換酵素)により、アンジオテンシンII (angII)という物質になります。
1991年時点ではここまでしかわかっていなかったのですが、その後の研究でアンジオテンシンIIはACE2(angiotensin converting enzyme 2)と呼ばれるプロテアーゼによってアンジオテンシン(1-7) という物質に変換されることが判明しました。
このころは、レニンがエイズの治療薬と結びつくとは全く考えていませんでしたし、ACE2受容体がSARSや新型コロナウイルスの受容体として問題になるなどとは思ってもいませんでした。